お茶の歴史ものがたり【5000年前、人類はお茶と出会った】

人類史において、お茶をはじめて口にしたのは誰なのでしょうか? お茶発祥の国である中国、そして、中国からお茶が伝来した日本におけるお茶の歴史をご紹介します。

 

お茶の歴史は「神農」からはじまった

長い歴史の中で、お茶をはじめて飲んだ人物は誰なのでしょう?
古代中国の神話によると、今から約5000年前、医薬と農業を司る神として崇められた皇帝「神農」だと言われています。
「神農」は、草木の薬効を調べるため、山野をかけめぐり、草木を見つけては自分で服用し、その効き目を試していました。そして、薬として使えるとわかると、その効能を人々に伝授していたのです。

「神農」のイメージ (C)Yandi Shennong

しかし、「神農」は手当たり次第に野草を口にするため、毒入りの野草を食べてしまうことも多々あったそうです。

そんなある日、いつのもように野草の毒にあたり、苦しんでいたところ、手に持っていた椀に一片の葉が落ちてきました。
「神農」がそれを口にすると、毒は消え体調が回復。その葉こそが、「お茶」だったのです。

それから「神農」は毒におかされるたび、茶の葉を噛んで毒を消したと伝えられています。
神話ではありますが、この逸話がお茶の歴史における、人類とお茶の一番最初の出会いとして語り継がれてきました。

 

中国の皇帝が2100年前に好んだお茶

神話ではなく、お茶に関する最も古い歴史的な記述は、紀元前59年に中国で記された奴隷売買の契約書にありました。そこには「武陽買荼(武陽で茶を買う)」という一文が書かれていたのです。武陽とは当時、中国にあった町の名前です。
そのほか、紀元前1世紀頃に中国で書かれた医学書『神農本草記』にもお茶についての記述が残されていました。

2011年、中国と英国の研究チームが、中国・西安近郊にある紀元前1世紀の中国皇帝の墓から、世界最古の茶葉の固まりを発見。奴隷売買契約書が書かれた時期と重なる今から2100年前に、中国でお茶が飲まれていたことの確かな証となりました。
ちなみに、この発見まで最古だった茶葉は、618~907年に飲まれていたものだったそうです。

 

世界最古のお茶の専門書『茶経』

760年ごろ、中国の文筆家・陸羽(りくう)によって世界最古のお茶の専門書『茶経』が著されました。

陸羽は自身の一生をお茶に捧げ、中国各地を旅し、さまざまな人とお茶に出会いました。
『茶経』はその旅で見聞きした、お茶の製茶法や飲み方、道具のことなどお茶に関するあらゆる知識をまとめた書物です。
『茶経』は中国の茶文化に大きな影響を与え、お茶のバイブルとなりました。そして、陸羽は、茶聖(茶の聖人)と呼ばれ、中国で崇められる存在になったのです。

『茶経』をわかりやすく解説した書籍『茶経 全訳注 (講談社学術文庫)』も発売されています。

『喫茶養生記』(C)早稲田大学図書館 古典籍データベース

ここまでは中国の話。お茶の歴史は、中国で始まり、世界中に広まっていきました。では、日本ではいつからお茶が飲まれていたのでしょう?

 

日本にお茶をもたらした「遣唐使」や「僧」

お茶は、奈良・平安時代の8世紀から9世紀にかけて、中国に渡った遣唐使や留学僧によって日本に伝来したと言われています。

805年、天台宗の開祖・最澄は、中国から茶の種と喫茶の風習を持ち帰りました。その種を比叡山のふもとに植え、お茶を栽培したのが、日本茶の歴史の始まりです。
平安時代初期の歴史を記した歴史書『日本後紀』 には日本最古のお茶に関する記述があります。

そこには「815年4月22日、近江の梵釈寺(ぼんしゃくじ)で、僧の永忠が嵯峨天皇に茶を煎じて献上した」と記されています。

嵯峨天皇は、近江、丹波、播磨などにお茶を植えさせ、毎年献上するよう命じていたほどお茶好きでした。

「空海」の像

真言宗の開祖・空海も最澄と同じ時期に中国に渡り、現地で茶文化に触れ、日本に中国の喫茶文化をもたらしました。
「お茶を飲みながら中国の書物を見ることにしている」といった空海本人が綴ったお茶に関する文書も残されており、空海も最澄や永忠のようにお茶を好んでいたようです。

この頃のお茶はとても貴重なもので、まだ庶民の間には広まっておらず、上流階級や僧侶など限られた人々だけが口にできました。
ちなみに当時のお茶は、蒸したお茶を固めて乾燥し、粉末状にして釜で煮て飲む「団茶」と呼ばれるお茶だったようです。

しかし、平安時代に広まりを見せた喫茶の風習は、お茶を好んだ蘇我天皇の崩御とともに廃れていってしまいました。
そして、次なるお茶の波が押し寄せ、庶民にまでお茶が広がるのは、それから1200年後の鎌倉時代のことです。

 

日本の茶文化の礎を築いた「栄西」

鎌倉時代初期の1191年、中国に渡った僧の栄西(えいさい / ようさい)は、帰国の際に茶の種子を持ち帰り、福岡県と佐賀県の境にある脊振山(せふりさん)など、各地にまきました。
この栄西の行いが庶民にまでお茶が普及するようになった原点といわれています。

栄西は1211年、日本初となるお茶の専門書『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著し、お茶の効能や製法について紹介しました。

「栄西」の像

そして1214年、酒好きと言われた将軍・源実朝に『喫茶養生記』を献上。栄西は、二日酔いで気分が悪かった源実朝にお茶を飲ませたところ、二日酔いがよくなり、源実朝が大いに喜んだという逸話も残っています。

栄西は、『喫茶養生記』を記し、お茶の栽培を奨励し、日本に喫茶の習慣を広めました。
さらに「茶の湯」のルーツにもなった「抹茶法」を、中国から日本に持ち帰るなど、平安時代に日本の茶文化の発展に大きく貢献。栄西は日本茶の「茶祖」として崇められています。

栄西 喫茶養生記 (講談社学術文庫)

『喫茶養生記』が現代語で読みやすく書かれた文庫本『栄西 喫茶養生記 (講談社学術文庫)』が発売されているので内容が気になる方はこちらを読んでみてください。

Editor

  • 三浦一崇
  • 三浦 一崇
    Kazutaka Miura

    NewTitleディレクター。雑誌編集者として5年、PR会社で広報マンとして3年、メディアの仕事に携わってきた経験を生かし、ジャーナリズム精神を忘れず、お茶のおもしろいことを発信中。

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